「なら、何も恐れることは無いだろう? キミと翠は、確かに恋人同士なんだから」
「で、でも、おじさまは……?」
「……ふーっ」
 ここで、康史は大きく息を吐き出した。そして、ゆっくりとした動作でスーツの内ポケットからタバコと渋い銀色のジッポーを取り出し、無言でタバコに火を点けた。大きく吸い込み、塊のような紫煙を娘の友人にかからないように吐き出す。
 自分でも意外な気分だが、出来たばかりの娘の恋人を前にして、どうやら冷静ではなかったようである。いい歳をした大人が、と康史は自嘲気味に薄く笑みをこぼした。
「すまない。こんなキツイ言い方をするつもりはなかった。どうも私は、キミに嫉妬しているらしい」
「……嫉妬? おじさまが? でも、翠はおじさまのモノなんでしょう? なんで私に嫉妬するんです?」
 予想外の単語が恋敵の口から出てきたことに驚いた千佳は、力が抜けたようにストンと腰を落とした。
「今ではキミのモノでもあるからだよ」
「……!」
 自分が翠の恋人になったことは確かであるが、翠が自分だけのモノではないことも分かっている。というより、翠の中で自分が占める割合は、康史のそれには及ばないと千佳は知っている。何しろ、目の前の男は翠が生まれた時からずっとそばにいるのだ。そして今も、二人は同じ屋根の下で暮らしている。恋愛的な関係という点では、どう考えても自分の方が圧倒的に不利である。
 だがそれでも、だからこそ、翠に対する想いの強さなら負けないという自信はある。
 目の前で薄く微笑む男は、愛する者の父親なのだ。彼が翠に注ぐ愛の源泉は、血の繋がった実の父親であるという関係そのものにあるはずだ。それは歪んだ父性愛、あるいは行き過ぎた愛情であるとも言える。つまりは、普通よりも強すぎるだけの、世の父親が普通に持っている、ただの家族愛に違いない。
 だから、何もないところから翠を愛するに至った自分の心の方が、遥かに強いはずだ。
「そうよ。想いの強さなら、負けない」
「なんだって?」
「なんでもありません。おじさまは私の敵だと、再認識しただけです」
「敵……か……。それは困るな」
「そうでしょうね。そのうち私が、翠を独占してしまうかもしれませんから」
「ああ、いや、そういう意味じゃないよ」
「大人の強がりはみっとも無いですよ。さっきもおじさまは言ったじゃないですか。私に嫉妬していると。いつか翠の心が、私だけに向いてしまうのが怖いんじゃないんですか?」
「ふむ……、それは怖くは無いが、寂しくはあるね。普通の父親ならみんなそうだろう。いつか娘はどこかに行ってしまうものなんだから」
「……余裕ですか? それとも、やっぱり翠に対する想いは、『娘』に対するもの過ぎないとか?」
「そんなことは無い。私は翠を愛しているよ。妻と同じように、身も心もね。だから、翠が君と付き合っているのがツラそうに見えて、私もツラい」
「なっ……! 翠が! 私と付き合っている翠が! ツラいですって?! あの娘が! 私と無理に付き合っているとでも言うんですか?! やっぱり、カムフラージュ……」
 目の前の男は、やはり敵だ。
 少女の心に、理解できない話をぶつけてくる。
 千佳は思わず拳を握りしめた。
 握りしめた拳で、テーブルの上のカップに八つ当たりをしそうになった千佳は、かろうじて堪えた拳をテーブルに叩きつけた。
 周囲の客の視線を一心に集めてしまっているが、千佳の視界は目の前の男に占められていて、周りを見る余裕は無い。
「そうじゃない。娘は君のことが好きだ。それは間違いない。父親の私が保証する。君と私の娘は、間違いなくお互いを想い合った恋人同士だよ」
「は……」
 思いがけず、恋敵からお墨付きをもらってしまった千佳は、呆けたような声を出したまま固まってしまった。目の前の紳士は、娘の恋人に真摯な言葉を掛けて見つめている。その瞳には、穏やかかな光すら宿っていた。
 千佳の頭は混乱してきた。一体、目の前の男は何が言いたいのだろう。
「改めて謝ろう。私は、君の意思を確認したかったんだよ」
「意思?」
「そう。突然で悪いんだが、今夜、ウチへ来ないかい?」
「…………っ! ど、どういうつもりです? だって、おじさまと翠は今夜……、その……、食事して、それから……するんですよね?」
 さすがに、人の眼のある場所でストレートな単語を口にするのは憚られた。声を荒げそうになったものの、終わりの方では蚊の鳴くような声になってしまう。だが、警戒心はまるで隠さず、敵意を込めた視線で、千佳は想い人の父親を射抜いた。
「そうだね、そのつもりだよ。翠も同じだ」
「……目的は、なんです? おじさまは翠を愛してるんでしょう? 以前はそれを誤魔化す為に、私や他の女の子を買っていた。でも、おじさまと翠は相思相愛だった。だから、お互いに想いを遂げて、晴れて恋仲になったんでしょう? なのに、なんで今更私みたいな紛い物の異物を入れようとするんです?」
「ふむ……、二つ返事で飛びつくと思ったんだけどな」
「バ……、バカにしないで!」
 千佳は思わずテーブルを叩き、再び立ち上がって康史を睨みつけた。五分入りの喫茶店内で、千佳はもはや舞台上の主役のごとき注目を集めてしまっている。だが、彼女の眼には恋人の父親しか映っていない。
「確かに私は翠が好き! あの娘と……、したいと思う」
 かろうじて残っていた理性で、千佳は具体的な行為を示す単語を口にはしなかった。だが、前後の話から省略した部分にどんな単語が含まれていたのか、周囲の客が想像するのは容易い。この時間、喫茶店内には仕事をサボっているサラリーマンが多いのだが、複数で来店している者たちも、会話を止めて千佳たちの話に聞き耳を立てているようだ。
「でも!」
 千佳は目の前の恋敵に対し、誇るように顔を上げて宣言した。
「私と翠はもう恋人なんです! セックスするのに誰にも遠慮することは無いわ! したいときにするの! 別におじさまのお膳立てなんか必要ありません!」
 興奮した千佳は、さっきは口ごもった単語を今度はハッキリと口に出して言ってしまった。
「私は、したいときにするわ。あの娘が嫌がってもね」
 そう言って、千佳は見る者の心にトゲが撃ち込まれるような、凄絶な笑みを浮かべた。
 実際、千佳は翠の身体を手に入れるために、脅迫まがいの事をしたことがある。
 千佳は再び腰をおろし、ティーカップを手に取った。そしてゆっくりと、優雅に、良家の子女にふさわしい仕草で少し冷めた紅茶に口をつけようとした。だが、手が震えてうまく口元に運ぶことができない。
 息苦しい。手の震えが止まらない。自分はなぜ、こんなにも冷静さを失っているのだろう。
「なかなか情熱的だね」
「……やっぱり、バカにしてるんですね」
「いやいや、感動しているんだよ。大人になると、男女の恋愛もそう単純なものではなくなってしまうからね」
「それはそうでしょうね。おじさまみたいに恋多き人なら、なおさらでしょう?」
「おっと、耳が痛いな。でもまあ、そんなにも想われていて、翠の父親としては嬉しい限りだよ。だから、翠の為にも、今夜ウチに来て欲しい」
「……意味が分かりません。翠とおじさまが愛し合うところを見せつけたいんですか?」
「ふむ……、それも悪くないな」
「な……!」
「だが、私が見たいのは君と翠が愛し合うところでね」
「へ……、変態……」
「翠にも言われたよ」
「正気ですか? 実の娘が、ほかの娘とするところを見たいとか……」
「おかしいかい?」
「おかしいですよ!」
「まあ、そうだろうね。ただ、翠はこんな私を全て受け入れてくれるそうだ。……どうだい、可愛いだろう?」
「うっく……」
 いきなり惚気られて、千佳は二の句が継げなかった。何より、翠が可愛いという部分は全面的に同意せざるを得ない。
「何の目的だ、と言ったね。私は翠を楽にしてあげたいんだ。別に隠す必要は無い、翠が秘密だと思っていることは、秘密じゃないってことを、教えてあげたいんだ」
「そんなの、普通に言えばいいじゃないですか」
「それじゃあ、つまらない」
「な、何言ってるんですか!」
 千佳は目の前の男が分からなくなってきた。
 翠の父親。恋敵。それは間違いない。
 だが、よく考えれば、元々千佳は康史のことをそんなに知っているわけではないことに気付いた。話をしたのは買われた夜と、先日の校門前でのみ。だから、千佳が翠の父親に対して持っているイメージは、翠というフィルターを通してのものだ。そしてそのフィルターは、ピンク色の好意に彩られている。となれば、実態とはかけ離れているのも仕方の無いことだ。
 そこまで考えて、千佳はようやく苛立ちの正体を理解した。要するに、翠から聞いていた話と、実際の康史という男のギャップがとんでもなく大きいのだ。
 翠の父親。恋敵。そして、お茶目な性格をした変態。
「……つまり、おじさまは、私と同類、なのね。は……ははっ……あははははっ! なーんだ。ホントに、難しく考えることじゃないのね」
「ん?」
「私は翠が好き!」
「ああ」
「おじさまも翠が好き!」
「そうだね」
「でもって、翠は、おじさまも私も好き!」
「そう言うことだよ。分かってくれたかい?」
「ええ、完全に。でも、私はおじさまがキライ」
 憑き物が落ちたかのようにスッキリした気持ちになった千佳は、晴れやかな笑顔で康史に正直な気持ちを投げつけた。
「そうか、それは残念だ」
 だが、ちっとも残念そうではない顔で康史は答えた。大人の余裕すら伺える。
「という訳で、翠を楽にしてあげよう。ついでに、サプライズで楽しませてあげられると良いな」
「分かりました。でも、これで一番楽しんでいるのは、おじさまでしょう?」
「君も楽しんだら良い。人を驚かすのはとてもワクワクするだろう?」
「ええ、まあ、確かに……」
「鍵を渡しておくから、先にウチに行っててくれ」
「ええ」
 そう言って、千佳は康史から鍵を受け取って立ち上がった。そして、当然のように伝票を康史の前に押し出す。そのまま女王然として周囲の視線を薙ぎ払うと、邪気の無い、見る者が頬を染めるような魅力的な笑顔で言い放った。
「でも私、やっぱりおじさまがキライです」