昼休み。
 翠と一緒に屋上でお弁当を広げていると、千佳のスマートフォンから可愛らしいメールの着信音が聞こえてきた。いつものように片手に箸を、もう片手にスマートフォンを手にして通知画面を確認する。
 雑多なメールやメッセージを全て通知する設定にしている千佳は、普段も食べながら話しながら、器用にメールやSNSへの返信や書き込み、削除を行っている。さすがに授業中にそれをするわけにはいかないから、大抵はお昼ご飯の時間にまとめてチェックしているのだ。
 だが今、画面に表示されている相手の名前は、千佳にとって思いがけない相手であった。画面を操作する指がピタリと止まってしまう。なんとか動揺を隠そうとしたものの、それはわずかに漏れてしまったようである。昨日、晴れて恋仲となった少女の瞳が、千佳を不思議そうに見ていた。
「どうしたの? チチキトク、スグカエレとか?」
「パパが、今夜デートしようって」
「……ああ、千佳のところも一緒か。おばさんも、ウチのお母さんと一緒の婦人会に入ってるんだもんね」
 イヤな汗を一滴流しながら、なんとか不自然でない間で千佳は答えることが出来た。おかげで、お弁当を食べているクラスメイトは訝しむことなく、勝手に納得したようである。
 千佳や翠の母親は、クラスメイトの親の集まりである婦人会に参加している。『婦人会』というのは通称であり、特に目的のある組織という訳ではない。最初は数人の集まりだったそうで、学園に通う娘たちの親が情報交換と親睦を兼ねて集っていたのが元らしい。もっとも、鈴城に通う少女たちの家はほとんどが裕福なせいか、母親たちの集まりは、たちまち娘を口実にした有閑マダムたちの遊びの場となってしまった。
「だから、今日は私、部活はサボって先に帰るわ。翠は?」
「アタシはいつも通り、部活してから帰る。あんまり早く帰っても、お父さんの仕事が終わってないもの」
「そっか……」
「……?」
 改めて千佳はスマートフォンに目をやった。画面を翠に見られないように、何度も読み返してしまう。
 ――間違いない。メッセージの通知画面に表示されているのは、援助交際掲示板における翠の父親のハンドルネームであった。
「お父さんと食事するの、イヤなの?」
 やはり顔には出ていたようである。心配そうな顔で翠は聞いてきた。
「ああ、ううん、全然そんなことないよ。ウチはフツーだよ」
「普通、ね……」
 千佳の恋心には鈍感だったくせに、恋人になったばかりの少女は、こういうちょっとした表情の変化にはすぐに気付いてくれる。それが嬉しくもあり、一方では腹立たしくもあった。
 本当に父親と食事をするのであれば、このメールには何の問題も無い。しかし今、千佳が『パパ』と言ったのは、血縁上の父親ではない。ウソは言っていないが、本当の事でもない。ここは日本語の曖昧さに感謝しなければならない。
 千佳は曖昧に微笑みながら、今の自分の動揺を誤魔化す為に、翠に対してちょっとしたイタズラを仕掛けた。
「大丈夫だいじょうぶ。翠んちとは違って、ウチは本当に普通の親子関係だから」
「え?」
 翠が実の父親と恋仲であり、肉体関係にあることを千佳はすでに知っている。しかし、翠はそれがバレていないと思っている。
(私が、本当は知っているって翠が知ったら、どんな顔をするのかしらね……。ちょっと見てみたくもあるけど、そうなると、私が前に翠のパパに買われたことがあるってことも知られちゃうし……。まあ、知られて気まずくなるのはお互い様なんだから、ここは翠をおちょくって誤魔化すか……。当たり前だけど、翠はそれを隠しておきたいみたいだし)
 千佳はイタズラを仕掛けた少年のような笑みを浮かべ、翠の父親に対する想いを揶揄した。
「翠みたいに、ファザコンを拗らせてるわけじゃないもの。いい歳して父親離れしてないとか」
「あ、ああ、そうね。そうよね。……もしかして、バカにしてる?」
「そんなことないわよ。でも、おじさまに嫉妬しちゃうのは、しょうがないでしょ? ね?」
 ウソを塗り固めるのに、真実を混ぜる。
 昔から言われていることであるが、恋人になったばかりの少女にそれを仕掛けるのはさすがに心苦しい。だが、隠し事をしているのは翠も同様である。それが免罪符にならないことを承知しつつも、送られてきたメールに対する動揺を隠すために、千佳は翠の頬に手を当てた。そして、大人しくキスを迎え入れるために目を閉じた少女の唇に、千佳は自分のそれを重ね合わせた。
 ――ソースの香りのキス。

「おじさまの方から連絡をもらえるなんて、思いもしませんでした」
「そうだな。私も、自分から君に連絡しようなんて、ちょっと前までは考えてもいなかったよ」
 康史の誘いを受けた千佳は、放課後、部活をサボって恋敵と喫茶店で向かい合っていた。壮年の男性と制服姿の女子高生。妖しい雰囲気になりそうな組み合わせであるが、二人の間に有るのはピリピリとした緊張感であった。
 喫茶店の客の入りは半分ほどで、二人の雰囲気から、千佳たちを訝し気な視線で見ている者はいない。
 千佳はティーカップから立ち上る紅茶の香りを楽しみながら、白い容器に揺れる赤い液体に口をつけた。
「それで、一体どんな御用です? もしかして、翠と別れたとか」
「それは無いよ。なにしろ、愛する者同士、一つ屋根の下で過ごしているんだからね」
「……そんな恥ずかしいセリフ、よくも真顔で言えますね」
「そうかい? 翠にも同じようなことを言われたな。まあ、君や翠みたいな子供だと、そう感じるかもしれないね」
 あからさまな挑発であったが、千佳はカチンとくる気持ちを抑えられない。だが、簡単に挑発に乗ってしまうのも癪である。表面上は軽く受け流して千佳は答えた。
「そうですね。あなたの愛する娘さんと同い年ですから」
「羨ましいかい?」
「……っ!」
「つい先日も、この手と唇で翠の身体を愛したばかりだ」
 そう言って、康史は自分の親指を軽く舐め、曲げた人差し指を鼻下に持ってきた。視線を指先にむけ、陶然とした表情を見せる。
「この指、翠の香りが残ってる。嗅いでみるかい?」
「……中々イジワルですね、おじさま。わたしの気持ちを知ってて、そういうことをするなんて……」
 もちろん、指先に翠の香りが残っているはずはない。仮に残っていたとしても、犬並みの嗅覚が無ければ気付くはずもない。だが、それが分かっているにも関わらず、千佳は思わず目の前の男が差し出す指先に意識を奪われてしまった。
 この男のペースに乗せられるわけにはいかない。千佳は早々に、出来たばかりの秘密を明かすことにした。
「でも大丈夫ですよ、おじさま。私がそれを羨ましく思うことは、もうありませんから」
「翠と恋仲になったからかい?」
 しかし、少女が自信満々で明かそうとした秘密は、すでに秘密ではなかったのである。
「……っ! 知ってたんですか? 昨日の今日なのに……」
「ああ、一応、翠の為に言っておくけど、これは翠が私にベラベラと話したわけじゃない。ウチの妻から聞いてね」
「おばさまから……」
「そう。こいつはまあ、私のせいでもあるんだが、妻が私と翠の仲を疑っていると、娘は考えててね。当たり前だが、バレたらまずいと翠は考えたんだろうね。で、そのカムフラージュに、キミと付き合うということを、ウチのヤツに話したみたいなんだ」
「私は……、ただの隠れ蓑という訳ですか……」
 康史はコーヒーに口をつけつつ、目の前の少女を注意深く観察した。どうやら娘の恋人は、あからさまに落胆しているようである。自分は翠に利用されているだけだと、そんなことを考えているのだろう。気持ちは分からないでもないが、少し腹立たしくもあった。
「キミは、ウチの娘が……、翠のことが本当に好きなのかい?」
「……どういう意味です?」
「私がウソをついているとは考えないのかい? 私とのたったこれだけのやり取りで、好きな娘のことを疑ってしまうのかい?」
「そ、それは……」
「キミの知る翠は、自分の為に友達の心を利用するような、そんなヒドイことをするような娘なのかい?」
「そんなワケ無い!」
 テーブルをバンと叩き、千佳は立ち上がって康史を睨みつけた。