千佳に手を引かれて階段を降りた翠は、一階の階段下、教材などが置かれている奥まったところに連れていかれた。一階は職員室や保健室などがあって一般の教室は無いため、他の生徒たちの姿は見えない。ホームルーム前に密談をするにはピッタリの場所だ。
 掴まれた手を少し苛立たし気に振りほどいた翠は、昨日恋人になったばかりのクラスメイトに詰め寄った。
「……で?」
「SRってのは、恋人同士でエッチするための秘密の場所で、そこを使ってるってことは、二人は恋人ってこと」
 簡潔な説明を一息に説明した千佳は、翠が意味を飲み込むまでの間、楽し気な色を湛えた瞳で恋人を見つめ続けた。
「……………………。ってことは……、つまり……」
「そ。翠はさっき、みんなの前で、私と恋人同士ってことをバラしちゃったのよね」
「な……! 何で昨日言ってくれなかったのよ! 分かってたらあんな……! みんなのいる前で、あんなコト言わなかったのに!」
「ああ、それはゴメンねぇ。いやぁ、でも、あの瞬間のみんなの反応は面白かったー。SRは学園の中でも公然の秘密ってヤツなんだけど、ああも堂々と口にする娘がいるなんてねぇ」
「知らなかったのよっ! あなたのせいよっっ! どーしてくれるのよっっっ!」
 翠は千佳のブレザーの襟を掴んでガクガクと揺さぶった。
 翠としては、千佳と付き合う事自体は問題ない。むしろイチャイチャしたいと思っているし、それにはエッチなことも含まれる。だがそれは人目を避けてヒッソリとするもので、衆人環視の中でベタベタするつもりは全く無かった。そして、千佳と恋人同士であることは、クラスメイトたちにも秘密にしているつもりであった。
 秘密。
 この場合は、康史や早季子、千佳に対する秘密とはレベルが違う。何が何でも隠しておかなくてはならないものではない。だが、やはり他の友人達には隠しておこうと思っていたのだ。それは単純に恥ずかしいからであり、やはり同性で恋人同士になったことに一抹のやましさを覚えていたからでもある。
「大丈夫よ。みんなも言ってたけど、ちゃんと見て見ぬ振りをしてくれるわ。私達がそれを望んでいるからね」
「……どういうこと?」
「まあ、この学園の、……そうねえ、伝統のようなものよ」
「どんな伝統よ……」
「一言で言えば、百合の楽園ってことよ」
「……百合? って何?」
「あちゃ……、そこからかー。翠って本当にそういうのに鈍感よね。援助交際を繰り返してた淫猥少女とは思えないわね」
「いいい、淫猥って何よ!」
「あ、『淫猥』は分かるんだ。百合ってのはね、女の子同士の恋愛に対する隠語よ」
「それってレズビアンのコト?」
「んー、レズとはちょっとニュアンスが違うかな……。これは私の勝手なイメージなんだけど、レズは女の子同士でセックスするのが好きな人」
「うん」
「で、百合は女の子同士の恋愛そのもののこと」
「ふーん、なるほどね。つまりこの学園は、女の子同士で恋愛するのに理解が有り過ぎる場所ってコトか。ホントにお母さんの言ったとおりなんだ……」
「おばさまが?」
「うん。うちのお母さん、この学園の卒業生だったのよ」
「知ってる。前に遊びに行ったときに聞いたよ」
「知ってたんだ。それで、お母さんも昔、同じクラスの娘と付き合ってたんだって」
「へえ、おばさまも結構お盛んなことだったのね。まあ、伝説の人ほどじゃないでしょうけど」
「伝説の人?」
「昔、この学園をフルに愉しんだ人が居たらしいのよ。その人はクラスメイトや先輩後輩、下は初等部から上は教師まで、手当たり次第に関係してたらしいよ」
「す、スゴイのね」
「ホントにねー。学園がその人のハーレムみたいになってたらしいよ。でもまあ、あくまで噂だから、尾ヒレがつきまくってるかもしれないけど」
 翠は大きく溜息をついた。
「はーっ。教室に戻りたくないなー。保健室でサボっちゃおうかしら」
 学園では品行方正、無遅刻無欠席で優等生の翠であるが、今は逃げたい気持ちでいっぱいである。ちょうど近くには保健室がある。
「翠が良いならそれでも構わないけど、保健室もSRなのよ? 私と一緒に保健室でサボったら火に油ね」
「ウソッ?! ホントに?? ……SRって、一体いくつあるのよ!」
「確か七つだったはずよ……。私が知ってるのは第二美術室、保健室、放送室、かな?」
 ここで千佳と一緒に保健室でサボっていると、彼女の言うとおり、さらに既成事実が積み重なってしまうようである。実際には、翠はまだ千佳と肌を合わせるところまでは行っていないのだが、ここで千佳と保健室でサボろうものなら、クラスメイト達の目には熱烈なカップルに見えてしまうだろう。
「うー、戻る!」
「ふふっ、そうした方が良さそうね」
「でもっ!」
「ん?」
 階段下から立ち去ろうとした翠は、思い出したように千佳に振り返った。そして恋人の首筋に絡みつくと、情熱的にキスをした。
「んんっ!」
「んは……。今度、時間のある時は、二人っきりで……ね……?」
「翠のエッチ……」

「さて、戦国時代では多くの武将が群雄割拠していました。大名と呼ばれる彼らは大小さまざまな国を治めていましたが、その配下の兵数は数千から数万といったところでした。京の都を押さえ、将軍を擁した織田信長などは六万の大軍を指揮していたと言われています」
 教室に戻った翠と千佳は、クラスメイト達の生暖かい視線を浴びながらも、それ以上は二人の仲を追及されることも無かった。確かに千佳の言う通り、見て見ぬふりしてくれているようである。しかし、このクラスで二人の仲は公然のモノとなってしまったので、事あるごとに話題の種となってしまうであろう。
 この先どうなるのか、深刻なものではないが漫然とした不安を抱えたまま翠は半日を過ごした。今は四時間目で、午前最後の授業である。歴女で名高い日本史の教師が話す歴史の講義を翠は聞くともなく聞き流していた。
「さて、皆さんの中には、お父様やお祖父様が会社を経営されている方も多いですね」
 教師だけあって、彼女は生徒達の基本的な家族構成や親の職業はだいたい把握している。さすがに生徒全員の詳細なプロフィールを丸暗記しているわけではないであろうが、良家の子女が通うお嬢様学校であるだけに、父親の職業も会社経営者や役員であることが多いのは承知している。
「会社の種類によって従業員数は変わるものの、数千人、数万人の社員を抱えた会社の社長をされている方もいると記憶しています。戦国時代と直接の比較は出来ないでしょうが、皆さんのお父様方が戦国大名と同じ規模の組織を運営していると考えると、とてもワクワクしますね。会社経営者は一国一城の主である、というのはそれほど大袈裟な表現ではないのかもしれません」
(ふーん。お父さんってやっぱりすごいんだ……。でも、千佳のお父さんって会社をいっぱい経営してるらしいから、もっとすごいのか……。ってことは、千佳は世が世なら大名のお姫さまってポジションか……。クスッ、合わないな……。アタシもだけど)
 と、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。静かだった教室が騒がしくなる。
「それでは、今日はここまで」
「きりー。れー」
 授業が終わり、教師への挨拶が終わるやいなや、千佳は翠の机に寄ってきた。場所はによってまちまちだが、二人は普段、一緒にお昼を食べている。
「みーどりっ! 今日は空いてる?」
「今日? 今日は……」
 お弁当箱を取り出しながら、翠は今朝、父親と夕食の約束をしていたことを思い出した。
「クラブが終わったら、どっかでお茶でもしに行きましょうよ。その後は……ムフフ」
 翠は恋人になったばかりのクラスメイトの物言いにギョッとしたが、朝に千佳が言ったように、周囲のクラスメイトは見て見ぬふりをしてくれているようである。だが、こっちの見ていないところで、生暖かい視線を送っているような気がしないでもない。自意識過剰と言われればそれまでだが。
「ゴメン、今日はお父さんと食事に行くんだ」
「えー、またぁ?」
「また?」
「だって、ちょっと前にもそんな事あったよね」
「あー……、ゴメン」
「翠には、私のココロの叫びが聞こえなかったっていうのね?」
「聞こえるわけ無いでしょ!」
「あははっ。そりゃそうよね。そう言えば、ウチのママも婦人会があるって言ってたっけ。それじゃ、今夜もおじさまとデートなのね」
「ゴメンね、千佳」
「ダメ、許さない」
「えー、そんなぁ……」
「でも、チューしてくれたら許してあげる」
「ちょ、千佳……!」
 声を潜めるでもなく、普通の声音で千佳はキスを求めてきた。
 動揺した翠は、思わず周囲を見回したが、こちらを見ているクラスメイトはいない。そう、ただの一人もこちらを見ていなかった。何人かは明らかに、首を無理矢理な角度で反対側に向けている。
(み、みんな……。ありがたいけど、逆に恥ずかしいよ……)
 仕方なく翠は椅子から腰を浮かし、眼をつむってキスを待っているクラスメイトに軽くキスをした。