ハッと我に返った翠は周囲を見回した。翠は妄想したまま、ほとんど無意識の動作で、いつの間にか学園の門を通り抜けていたのだ。千佳に声をかけてもらえず、そのまま歩いていたら、昇降口の段差で蹴躓いていたかもしれない。
「また妄想? 朝から何を考えてたのよ? あ、もしかして、私のコトだったりして?」
「ああ、あはは……、ううん、別に、何も考えてないわよ」
「ウソ」
 だが、呆れ顔の千佳に、適当に誤魔化そうとした翠は、想い人にあっさりと否定されてしまった。
「私のコトってのは冗談だけど、まともなコトじゃないってのも分かるわ。今の翠の顔、口にできないようコト考えてる時の顔だもの」
「うううウソっ!」
 思わず翠は自分の頬に両手を当て、登校してきた女生徒たちで賑わう昇降口を見回した。幸い、こちらを注目しているクラスメイトや友人はいないようである。
「でぇ? 何を考えてたのかしらぁ? 恋人の私に話して……むぎゅっ!」
「こ、声が大きい!」
 千佳の口から『恋人』という単語が出た瞬間、翠は反射的に想い人の口を押さえた。勢い余って、千佳の身体を下駄箱にぶつけそうになってしまう。翠はとっさに下駄箱に手を突き、かろうじて勢いを止める。そして手を突いたまま、ゆっくりとクラスメイトの口から手を離すと、大きく息を吐き出した。
「はーっ……。いい、千佳?」
 周囲に聞かれないように、翠は千佳の耳に自分の唇を近付けた。
「アタシたちが付き合ってるのは、秘密にしてよ?」
「何で?」
「何でって……、恥ずかしいからに決まってるでしょうっ? 女の子同士なんだから!」
「大丈夫よぉ、そんなの気にするようなのはいないって。ここをどこだと思っているの?」
「それは……」
「おはようございます、三嶋さん、遠山さん」
 ちょうどその時、クラスメイトの一人が声をかけてきた。鞄を手に、二人の怪しい様子を見て首をかしげる。
「……いつもは遠山さんが迫っているのに、今日は逆なのね。朝から壁ドンとか、三嶋さんも随分と情熱的。それに、相手の耳元に囁くなんて、とってもエッチだわ」
「ち、ちがっ! あああの、これはね、えっと……」
「やー、まずいところを見られちゃったかなー」
「千佳も余計なコト言わないで!」
「ふふっ、相変わらず仲が良いのね。朝からごちそうさま。お先に失礼するわ。イチャイチャするのはいいけれど、ホームルームには遅れないでね」
 そう言って、クラスメイトは上履きに履き替えると、翠たちに生暖かい視線を投げつつ先に教室へと向かっていった。
「あ、ちょっと……!」
「みーどりっ」
「何よ!」
「あんまりムキになると、藪蛇じゃない?」
「はう……!」
 さっきクラスメイトが口にしたように、千佳が翠に恋愛的なちょっかいを出すのはいつものことである。そして、本気にしないで気の無い返事を翠がするのもいつものことである。
 だが、今の翠と千佳は本当の恋人同士である。翠の慌てようは逆に相手の興味を引いてしまい、千佳と付き合っていることを隠したい翠の意図とは正反対の効果をもたらしてしまうだろう。
 先に教室へ向かったクラスメイトの後ろ姿を見送りつつ、翠は軽く溜息をついて気持ちを落ち着かせた。
「……とにかく、アタシたちのコトは内緒よ」

「おはよー」
 教室の中はいつもと変わらない様子であった。先に教室に入っていたさっきのクラスメイトも、翠の怪しげな態度を誰かに話してはいないようである。いつもと攻守が逆というコト以外は、翠と千佳の様子はいつも通りに映ったのであろう。
「ああ、ところで千佳」
「ん?」
 机に乗せた鞄から教科書やノートを机に移し替えながら、翠は昨日から疑問に思っていたことを千佳に訊ねた。
「昨日、二人で第二美術室に行ったでしょ? あそこって、何か特別な場所なの?」
 翠が第二美術室を訪れたとき、入れ替わりで二人組の女生徒とすれ違った。上級生と下級生という組み合わせであったが、今の翠には、あの二人がどういう関係なのかは想像できる。おそらくは恋人同士なのであろう。
 そして、翠と千佳が恋人同士になったのもあの場所である。そういう意味では翠にとっても特別な場所なのであるが、学園の中ではどういう意味を持った場所なのであろうか。
 千佳は一瞬困ったような表情を見せたが、周りを見回すと、軽くため息をついて話し始めた。
「あのね……」
 だが、千佳はそれ以上、話すことは出来なかった。なぜなら、教室に居たほとんどのクラスメイトが、黄色い声を上げながら一斉に二人の周りに集まってきたからである。
「な、何々?」
 それまで、お嬢様学校の女学生らしく朝の歓談を優雅に楽しんでいた少女たちに、翠と千佳はあっと言う間に取り囲まれてしまった。友人たちのあまりの勢いに翠は仰け反りそうになったが、後ろにもクラスメイト達が集まってきた為、それ以上さがることも出来ない。
「お二人って、やっぱりそういう関係だったんですか?」
「違うわよ。遠山さんがフラれ続けたのが、ようやく実を結んだのよ」
「えー、でも、三嶋さんもまんざらではない雰囲気だったでしょう? 私はてっきり……」
「まあ、確かに、夫婦漫才みたいなやり取りでしたものね」
「でもそれが、SRに行ったということは……? ふふふ……、そういうコトなんですよねっ! ねっ!」
 SRという単語が出たところで、全員の視線が翠と千佳に注がれた。
「あ、あの……、ち……、千佳っ!」
 少女たちのキラキラとした視線の圧力に耐えきれず、翠は思わず恋人の名を叫んだ。
「あー、はいはい。ごめんねぇ、みんな。忘れてるかもしれないけど、翠は編入組なのよ。SRのことも知らないんだし、だから、そんなに追い詰めないであげて」
「知らない? 本当に?」
「編入組とは言っても中等部からでしょう? この学園に四年以上通っていて、SRのことを全く知らないなんて……。そんなことあるんですの?」
 周りに居たクラスメイトたちは、信じられないと行った風に翠を見た。まるで珍獣でも見ているかのようだ。
「ホラ、翠ってそういうのに鈍感だから」
「確かに、遠山さんのアプローチも全く響いていないようでしたし」
「私は、三嶋さんも分かっていて、のらりくらりとしていたとばかり思っていましたわ」
「そうそう、私達も結構ヤキモキしていたんですのよ」
 クラスメイトたちは、翠と千佳のことを姦しくも和気藹々と話しているが、この場にいる少女たちの中で、どうやら翠だけが事態を把握していないようである。SRという聞き慣れない単語の意味も分からないままで、誰も説明してくれない。全員から好意的な視線を向けられているものの、輪の中心に居ながらおかしな疎外感を覚えずにはいられなかった。まるで、見に覚えのない罪を問い質されているような気分である。
「でも、お二人でSRに行かれたということは、そういう関係になられたんでしょう? 良かったわね、遠山さん」
「ありがと。でも、しばらくは見て見ぬ振りをしてくれないかな。翠も混乱してるし。でしょ、翠?」
「ええと……、うん……」
 訳の分からない状態の翠は、確かに混乱していた。だから、千佳の言葉に翠はコクコクと素直に頷いた。頷くしか出来なかった。
「まだホームルームまでは時間があるし……、ちょっと外に行こっか、翠」
「え、あの、ちょっと……」
 教室の時計をちらりと見た千佳は、要領を得ないままの翠の手を掴むと、周囲のクラスメイトたちの輪から抜け出した。
「お幸せにぃ」
 クラスメイトたちの生暖かい視線と祝福を浴びながら、翠は千佳の手に導かれるままに教室を後にした。釈然としない思いは晴れることは無いものの、姦しい好奇心の圧力から逃れることの出来た翠はホッとしてもいた。