夕日はほとんど沈みかけており、今は使われていない美術室には、茜色の残照が挿し込んでいる。
 翠の頭の中で、自分を取り巻く淫らで秘密の関係が駆け巡った。
 父親との関係。これからの千佳との関係。秘密と、秘密と、そして秘密と……。
 親友の囁きが甘いものであることは否めない。翠が千佳を受け入れれば、形の上だけとはいえ恋人関係となる。そしてそれは、母親の目を誤魔化す為に翠が望んだ通りのことでもある。これまで通りの生活が続くのだ。
(これまで通り……? 本当に……?)
 もちろん、そんなことはあり得ない。
 父親と恋仲であること、これは秘密である。
 親友と恋仲になること、これも秘密にしなければならない。
 自分一人の秘密であれば、守り通していく自信はある。だが、父親とも親友とも肌を合わせ、それでいて、それぞれに知られずにいる。はたして、そんなことが出来るのだろうか。
 決めかねている翠の上で、夕日に照らされた全裸のクラスメイトが見下ろしている。視線はずっと翠の瞳を射抜いたままだ。瞬きすらせずに、答えを迷っている想い人を見つめている。
「千佳……、アタシ……」
 と、千佳の唇から舌がのぞき、上唇をペロリと舐めた。
 その仕草を目にした瞬間、翠の脳裏に小さな稲妻が閃いた。
 舌なめずりをする。それは猛獣が獲物を前にして、食欲が溢れ出している状態である。身体を震わせ、涎を垂らし、今にも獲物に食らいつこうという瞬間の仕草だ。
 だが、千佳のそれは違うと、組み敷かれたままの翠は気が付いた。理由はうまく説明できないが、今の親友の仕草は、獲物を前にした余裕の動作などではなく、その逆であると気付いた。気付いてしまった。眉根の微妙な角度なのか、口角のかすかな震えなのか、あるいは肩を掴む強さなのか、とにかく、翠を見下ろすクラスメイトは、秘密を盾に脅迫する者の余裕はなく、むしろ緊張していることが見て取れた。緊張している人間は無意識に唇を舐めるという話を、翠はおぼろげに思い出した。
 千佳はこれまで、冗談に紛らわせて翠への想いをそれとなく伝えてきていた。そして今日、秘密の暴露を機会に翠への想いを告白してきた。それでダメならと、翠を脅してきたのだが、それもなかなか中途半端だ。脅しを口にしながら組み敷くのなら、そのまま問答無用で相手の操を奪ってしまえばいいのだ。自分だけ裸になって迫るような迂遠なことはせず、抵抗しない想い人の服を剥ぎ、唇を奪い、思うままに身体を貪ればいい。
 でも、千佳はそれをしない。脅しと言いつつ、最後の判断は翠に任せている。そして、その答えを待って緊張している。
(なんだ、さっきの告白と同じじゃない。千佳ったら……)
 そこまで考えて、翠は急に目の前の少女が愛おしくなってしまった。ここまで自分のことを想ってくれている少女が、とても可愛く思えてきてしまった。こんなに想ってくれている千佳を、翠はこれ以上拒絶してもいいのだろうか。
 それに、翠は今、親友の想いの強さに感動してもいた。裸で翠に覆いかぶさっている少女は、想いを決してあきらめず、好きな相手に真正面から向かってくる。例え断られても、少しでも近づこうとする。それは、翠には出来なかったことだ。血が繋がっているからと、実の父親だからとあきらめていた翠には出来なかったコトである。一人の女の子として、親友の愛気は尊敬に値した。
 多分、ここで断っても、千佳は翠の秘密を母親の早季子にバラしたりはしないだろう。だが万が一バラしたりたら、今度こそ本当に翠と千佳の関係は終わってしまう。普通の友達付き合いすら出来なくなってしまう。
 そんな未来に身体をブルっと震わせた翠は、淡い微笑みを浮かべて決意した。そして、ゆっくりと目を閉じる。
 暗くなった世界の中で、親友の息遣いと体温だけが感じられた。やがて、翠の唇に、同じ柔らかさを持ったものが押し付けられてくる。目を閉じていても間違えようのないそれは、明らかに親友の唇であった。
「ん……」
 淡く、優しく、そして柔らかい。男の唇とは違う感触が、翠の濡れた唇と重なっている。
 親友のキスを受け入れた翠は、薄く唇を開いた。挿し込まれてくるであろうクラスメイトの舌先を待ち構える。だが、甘く柔らかいモノは入ってこなかった。そのまま、ゆっくりと唇が離れていく。
「翠……、良いのね……?」
 開いた目に映った千佳の表情は、さっきまでと同じ不安の色を湛えていた。ここまで来て、千佳はまだ不安であるらしい。自分の行いに自信がないらしい。確かに、身体だけとはいえ想い人を手に入れるために使った手段は褒められたものではない。だが、そんな手段を使ったのなら、もっと堂々としていればいいと翠は思う。たとえ演技であろうが、さっきまで見せていた不敵な笑みで自分を犯せばいいと思う。
(でも、千佳はそんな娘じゃないのよね)
 普段の千佳はエキセントリックで、およそ良家のお嬢様らしからぬ言動と行動で周囲の目を白黒させていた。だが、翠は彼女の素顔を知っていた。人付き合いにおいて、学生時代の一年は、社会人の十年に匹敵すると言われている。千佳と出会ってから約一年半。親友が必ずすることは何か、絶対にしないことは何か、翠はとてもよく分かっている。千佳はきっとこの先、おっかなびっくり、恐る恐る翠の身体を求めてくるだろう。怯えたような本性は隠しながら、表面上は強気な態度で唇を重ねてくるに違いない。
 そんな可愛らしいクラスメイトを想像して、翠はなんだか嬉しくなってきてしまった。心が浮ついて、愉しい気分が湧き上がってくる。
「翠……?」
 親友の顔が近い。我慢が出来ない。濡れた桜色の唇に目をやった翠は、心の内から沸き上がる衝動に従って、千佳の唇に吸い付いた。
 驚いた千佳は反射的に離れようとしたが、翠は相手の首に抱きついて離さない。
「んん……! ん、ん、んんんーっ! ぶはっ! ちょっと、翠っ?」
「好き! 千佳! あなたが大好き!」
「待って待って! ちょっと待って! ダメなんじゃないの? 私とじゃ恋人になれないんじゃなかったの!?」
「大丈夫! たった今! 千佳が好きになったの!」
「な、なによそれぇっ!」
 千佳が怒るのも無理はない。さっきまでの神妙な空気はなんだったのか、まるで冗談であったかのように、想い人が晴れやかな笑顔で自分のことを好きだと言っているのだ。
「ふ……、ふざけないでよ! 私が! 私が散々悩んで! 考えて! こんな……! 何もかもさらけ出して迫ってから好きになったなんて! おかしいでしょ!」
 たった今、自分が裸でいることに気付いたかのように千佳は両腕で豊かな胸を隠した。さっきまでの媚態はどこへ行ったのか、腿をすり合わせるようにして翠から身を引き、ソファの反対側に後ずさる。
 心が躍っている。自分の顔が笑っているのが分かる。恥ずかし気に身体を隠す千佳がとても美味しそうに、愛おしく見える。
「ゴメンね。自分でもおかしいと思う。変なのは分かってる。でも。これが今のアタシの本心なの。千佳と、……セックスがしたい」
「……!」
 呆れて絶句しているクラスメイトの前で、翠は胸元のリボンを引いて勢いよくほどいた。そしてスカートのジッパーを下ろし、学校指定のフレアスカートをふわりと足元に落とす。
「な……、な……」
 さっきの千佳とは違って、翠はブラウスの下に普通に下着を身に着けている。だがそれでも、千佳と同じように淫らな姿であることに変わりはない。
 溢れる乳房を両腕で抱えるようにしてソファに座っている千佳の隣に、翠はポフッと腰を下ろした。じりじりとお尻をずらしてにじり寄る。
「ゴメンね、千佳。ホントにゴメン。アタシ、難しく考えてたみたい。好きなものは好き。それでいいのよね。そしたら、みんな幸せになれるわ」
「こ……の……っ、能天気娘! なによ! いつもの翠じゃない! なんなのよ! さっきまでの真面目な顔は!」
「きゃうっ♪」
 逆ギレ気味になった千佳に、翠は再び押し倒された。二人の態勢はさっきと全く同じだが、古い教室に漂う雰囲気はまるで別物だ。硬く、重く、息苦しくなるような空気であったのが、今は明るく、陽気で、そしてほんのりとピンク色の空気が漂っている。
「……なんで私、こんなのを好きになっちゃったのよ……。ただの友達で十分面白いじゃない……」
 さっきまでただのクラスメイトであった少女を見上げて、翠は相手の首に腕を回した。
「アタシも、さっきまでそう思ってたよ。友達でいいじゃんって。でもダメ。もうダメ。千佳が好き。大好き! あなたが欲しくなっちゃったの。……それに、そんなエロい格好してるんだし」
「あなたのせいよ……」
「千佳のせいだよ。だって、アタシは脅されちゃったんだもん。だから、アタシのこと、好きにしていいよ……」
「……」
「……」
 夕日はすでに沈み、教室の中は薄暗くなっている。明かりの点いていない忘れらたかのような古い教室で、二人の少女はしばらく見つめ合っていた。一人は半裸で一人は全裸。例えようもなく淫らな雰囲気で恋人同士になろうとしている少女たちは、お互いの頬に手を添えた。
 やがて眼を閉じた二人の少女は、ゆっくりと顔を近付けていった。