千佳が翠に向けた画面には、見慣れた掲示板アプリの起動画面が映っていた。
「なんで? なんで、千佳がこのアプリを持ってるの!?」
 その掲示板アプリは、極端なまでに短文のメッセージしか記入できない点を生かして、暗号染みた売買春のやりとりに特化した使われ方をされていた。無駄に劣情を煽るような文章や扇情的な画像を載せることが出来ないため、業者の入る余地が全くなく、使用する人間は安心してやり取りをすることが出来るのだ。
 そしてそれは、翠が父親と恋仲になるきっかけとなったものでもある。
「なんでって……、もちろん、翠とおんなじ理由よ」
「それって……」
 千佳は、翠よりも豊かな胸に手を当て、少し潤んだ流し目でクラスメイトの問いに答えた。
「そ。身体を売るため」
「……!」
 予想していたとはいえ、あまりにもストレートな、そしてあっけからんとした答えに、翠は言葉を返すことが出来なかった。
 気のせいだろうか、いつも教室で他愛のない話に興じていたクラスメイトが、翠の目に急に大人びて見えた。いや、大人びたというよりも、艶めいた、というべきであろうか。良い処のお嬢様とは思えない、女の翠でも気持ちが浮ついてくる濃密な色気が親友の身体から感じられた。
「それから、今朝の男なんだけどさ、もう察しがついてると思うけど、私のお客だった人」
「お客って、つまり……」
「私にお金を払って、私の身体を楽しんだ人よ。……なんて、いちいち聞き返さないでよ。翠だって散々やってきたことでしょ? あいつとは何度か掲示板経由で会ったんだけど、どうにも私に本気になってきたっぽかったのよね。だから、ブロックかけてもう会わないようにしてたの。普通はそれで終わりでしょ? 割り切った関係なんだからさ」
「それじゃ、なんで……、あの人はこの学園に来たの?」
「それは私の方が聞きたいわ。まあ多分、私のことを偶然見かけて後をつけてきたんでしょうけど」
「ははあ……、それじゃ、ホントにストーカー予備軍だったんだ」
「そういうことになるわねぇ。間にお金が挟まってるんじゃ、本気の恋愛関係になんてなれるはずもないのにね。夢見すぎ」
「ヒドっ! あの人の言い分じゃ、随分と甘い言葉を囁いたみたいじゃない」
「リップサービスよ。料金の内だわ。翠だって似たようなこと、してきたんでしょ?」
「ああ、まあ……、確かに……」
 とは言ったものの、翠の相手はほとんどが壮年の男性だったので、さっきの男のような本気の色恋沙汰になったことは無い。それに、彼らは家庭を持っていることが多く、だからこそ翠も身体を使って奉仕することに徹していた。ただ、稀に『パパ』と呼ばせることを希望する客もおり、翠もそのリクエストに応えて父親に甘えるようなセックスをしたのだが、逆に自分の方がハマってしまいそうだったので、そういう客とは二度と会わなかった。
 ヤバそうな客とは会わない。それは援助交際でリスクを回避するための、当たり前のルールである。翠が援助交際を初めた頃はトラブルになりかけたことが何度かあったものの、その気配が感じられそうな客は何となく分かるようになってきていた。
「……というわけよ」
「え? ああ、ゴメン、気が散ってた。なんの話だったっけ?」
「もう! 翠がお仲間だったって気付いた理由よ!」
「あ、ああ、ああ……」
「掲示板で『ミノリ』って名前を見つけてね、ピンと来たのよ」
「……え? それだけで?」
「直接のきっかけはその名前なんだけどね、希望内容と時間帯、最寄り駅、その他諸々を過去に遡ってみてみると、翠の行動とピッタリだったのよ」
「で、でも、あんな暗号染みた内容だけじゃ、そんなの分かるはずないわ」
「その通りね。だから、それは、ただの私の勘。ううん、きっと愛の力ね!」
 両手を胸の前で組み合わせ、ウットリした瞳で千佳は何もない天井を見上げた。きっとその眼には愛の天使が祝福している様子が見えるのだろう。
「いやいやいや……」
「でも、それに気付いてから翠と掲示板を比べると、もう否定する要素が全然無かったのよ。だから、悪いとは思ったんだけど、翠のスマホを覗いちゃいました。ゴメン!」
 千佳は隣に座るクラスメイトに、両手を合わせて頭を下げた。
「……チョコケーキは二個で」
「やっぱり食い気なの!?」
「ケーキは大事よ。で、『ミドリ』っていうのは? アタシの名前」
「ああ……、それは秘密……って、ワケにはいかないよね」
「当たり前でしょ?」
 親友とはいえ、そして、お互い様とはいえ、援助交際に手を染めていたことを、千佳は明るくあっさりとした雰囲気で打ち明けた。だが、翠が最後の疑問を口にした途端、クラスメイトの表情から陽気な成分が剥がれ落ちるように消えていった。
「……千佳?」
 その変化の急激さに、翠は戸惑いを覚えた。
 身体を売っていたことを明るく話すのもどうかと思ったが、千佳の性格を考えれば分からなくもない。お嬢様学校に通う良家のご令嬢であるにもかかわらず、千佳が普段見せるエキセントリックな言動と行動は、翠にとって見慣れたものである。だが今、翠の隣に座っている親友の表情は、ひどく真面目なものであった。
 何かを考えていたのか、しばらく目を閉じていた千佳は、意を決したように立ち上がり、翠の正面に立った。
「えと……、千佳、さん?」
「この教室、なんて呼ばれてるか、知ってる?」
「え、ここ?」
 真面目な顔で何を話すのかと翠は思ったのだが、さっきとは違ってストレートに話すのではないらしい。自分の名前を騙ったことが、それほど大事な話なのだろうか。
「第二美術室、でしょ?」
「それは表向きの名前」
「……裏では?」
「『SR』……」
「えすあーる? なんかの略称?」
「多分、そう。でも、なんの略称かは私も知らないの」
 そう言って、千佳は翠の正面で片膝を突いた。視線が自分よりも下に来る。そして、見上げるクラスメイトは、制服のスカートからのぞく膝に手を置いてきた。
 スキンシップ自体はいつものことなので、翠は親友が触れるままにしていた。
「おばさまに聞いたんだけど、翠って、この学園のこと、よく知らなかったんでしょう?」
「学園のことって、あのこと?」
「そう、あのこと」
 傍で聴いている者がいれば、指示代名詞だらけで何を指しているのか分からないであろう。だが、翠も千佳も、その意味を正確に把握していた。
「……この間、お母さんに聞いたよ」
「ここはね、この学園にいるカップルが、女の子同士でこっそりと愛し合う為の場所なの」
「それじゃ……、さっきの二人も……」
「そう。私たちが来る前に、ここでイチャイチャしていたのよ。どのくらい仲が良いのかは分からないけど、多分、とてもイヤらしいことをしてたんでしょうね」
「エッチなこと、してたんだ……」
「そう。ここは、そういう場所なの。もう、私の気持ちも分かったわよね。ううん、昔から言ってるわね。でも、翠は真面目に答えてくれなかった……」
 視線を逸らした千佳の表情がとても哀しそうで、翠は云い知れない罪悪感に駆られてしまった。
「あ、ご、ゴメン……」
「いいのよ。私も、拒否されるのが恐くって、友達関係も終わるのが怖くって、冗談で終わらせてたんだから。でもね……」
 クラスメイトが見せたその表情、哀しそうな笑顔に、翠の心臓が絞られるような苦しさに締め付けられた。
「本気……、なの?」
「本気よ」
「……」
(ダメ……、私には、お父さんが……)
 重く、塊のような空気が広々とした古い教室に満たされていった。心が落ち着かない。身体が浮ついた感じがする。一直線に自分を見つめる眼差しが熱くて目が逸らせない。それ以上、言わないでほしい。いつものように、他愛のない冗談だと言ってほしい。
 千佳は片膝を突いたまま手を伸ばし、翠の両手を包み込むように握りしめた。
「人を好きになるのって、二種類あると思うの。その人が欲しいか。その人と同じになりたいか。私が援助交際を始めたのは、最初はただの火遊びだった。でも偶然、翠も同じことをしていると気付いてから、翠のことばっかり考えるようになったわ。翠が自分の父親のような人たちに好んで身体を売っていると知ってからは、私もおじさまのような人たちとセックスしてきたの。名前も『ミドリ』にして、翠と同じように、あなたと同じことをしようって思った。私が男なら、多分、あなたが欲しいって思うだけだったんでしょうね。でも、私は女。翠も同じ女。あなたのことを想っていると、あなたが欲しいって感じるのと同時に、あなたと同じになりたいって思うようになったの。身も心もって、きっとそういうことなんじゃないかな?」
 両手を握りしめたクラスメイトの表情からは、いつの間にか哀しみが薄れ、頬は情熱色に染まっていた。
「私は、あなたが好き。三嶋翠が大好き。……セックスがしたいって意味で」