「はっ……!」
 シンとした静かな部屋で目が覚めた翠は、自宅とは違う天井を見上げていた。白いカーテンに白いベッド。そして、ほんのりと消毒薬の匂い。
「…………知らない天井だ。なんちって……」
「目が覚めた、翠?」
「うわっとぉ! ……千佳? 居たの?」
 誰もいないと思っていたところへ、いきなり声を掛けられて翠は跳ね起きた。翠が寝ていたベッドの傍らには、クラスメイトの遠山千佳がスマートフォンを片手に座っていた。
「『居たの?』はないでしょ? 心配だから、部活もサボって付き添ってあげてたのに」
「……今、何時?」
「もう授業は終わって放課後。三時半よ。昼休みに気分が悪いって言って保健室に来たの、覚えてる?」
「ああ……、そうだった……。ふはー……っ」
 今の自分の状況を理解した翠は、保健室のベッドの上で盛大なため息をついた。
「調子はどう? なんなら、目覚めのキスをしてあげましょうか?」
 いつもと変わらない冗談めかした口調で、クラスメイトは自分の下唇に人差し指を当てた。
「……!」
 その仕草に、翠はドキリとした。なにしろ、さっきまで観ていた夢の内容が内容である。冗談を言った方は何気なく言ったのかもしれないが、今の翠にとっては生々し過ぎる行為だ。夢の中での、千佳のふくよかな身体の感触が、まだ腕に張り付いているようだ。男の逞しい身体とは全く違う、ふんわりとした温かい柔肉。その幻の感覚に心を乱されたのか、翠は訳の分からない事を口走ってしまった。
「あー、あはは、そうね、お願いしようかしらね……」
「え、ホントに?」
「……え? ああ、ウソウソウソ! 忘れて! 冗談だから! アタシ、まだ寝惚けてるのよ!」
「そう? 残念」
(……あれ? もう引いた?)
 慌てて両の掌を千佳に向けてぶんぶんと振って全力で否定した翠は、あっさりと引いたクラスメイトに拍子抜けした。
 いつもであれば、教室でも廊下でも、千佳は人目を気にせず翠に絡んでくる。いじめっ子の心理に近いのであろうが、翠が嫌がるほど、恋人を自称するクラスメイトは嵩にかかってちょっかいを出してきていた。
 もっとも、最近では翠も慣れてきて、変に嫌がるよりもさらりと受け流すことが多い。
 だが、今の翠の慌てっぷりは、親友の嗜虐心を煽るのに十分だったはずだ。にも関わらす、千佳はさして残念がる風でもなく何かのアプリを操作していたスマートフォンをポケットに仕舞った。
 そこで、翠はピンと来た。
「……変なコト、しなかったでしょうね?」
「変なコト? ……んふふ。変なコトって、なぁに?」
「へへ変なコトは変なコトよ!」
「翠がどんな風に変なコトを想像してるのか知らないけど……」
「……」
「変なコトなら、してた」
「…………は?」
 まさか、素直に肯定の返事が返ってくるとは思わなかった翠は、間の抜けた声で聴き返した。
「翠のオッパイを揉んでた」
「……ううウソでしょ?」
 翠は慌てて、薄手の白い掛け布団を胸に掻き抱いた。
「ホントよ。だってぇ、すっごく艶っぽい声で寝言を呟いてたんだもの。イタズラしたくなるのも、当然でしょ?」
 そんなことをしても手遅れなのだが、今度は反射的に自分の口を押さえた。さっきまで観ていた夢の内容を考えると、今の翠にとって致命的な何かを呟いてしまったかもしれない。
 翠の背中を、イヤな汗が流れだした。身体の中を得体の知れない熱が駆け巡り、顔から火が噴き出すような気分だ。同時に、気持ち悪い冷たさが背中を滑り落ちていく。
「あ、アタシ……、何か変なコト、言ってなかった?」
「なんだか、『変なコト』ばっかり言ってるわね。『変なコト』って言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうだわ」
「げしゅ……、何?」
「何でもないわ。んーとね、まあ、実際はほとんど良く聞こえなかったんだけど、女の人の名前とか……」
「おお女の人?」
「うん。『真奈美さん』って」
「ほ……、他には?」
「後は、『おと……』」
「……!」
 翠は思わず悲鳴を上げそうになった。誰にも知られてはいけない父親との関係を、寝言が原因で親友に知られてしまったのだろうか。
「『男なんて……』とか?」
「……………………は? アタシ……、そんなコト言ったの?」
「うん、言ってた。他にも、『いいなあ』とか、『恋人がー』とか。……もしかして、翠って欲求不満? なんなら、私が解消してあげようか?」
「要らないわよ! アタシ、もう帰るね!」
「その格好で帰るの?」
「ふえ?」
 翠は保健室のベッドで寝る前に制服のブレザーとリボンをハンガーに掛けており、ブラウスとスカートという格好で横になっていた。そのブラウスの胸元が、千佳に指摘されてスースーしていることに気が付いた。ブラウスのボタンが半ばまで外され、少女の白い素肌が見えてしまっている。
 翠は反射的に胸元を押さえて叫んだ。
「下着! アタシのブラはどうしたの!」
「うふふ、これ?」
 そう言って、千佳は釣り上げた魚を見せるように、クラスメイトの下着を持ち主の目の前でプラプラと揺らした。
「うー、何やってんのよ、アンタは!」
「だぁって、翠ってば寝苦しそうだったからぁ」
「だだだからって、ブラを外すとか有り得ない! おおオッパイ、揉んでたって……、ホントなの???」
「やーらかかったなぁ」
 どうやら、淫らな夢を見ていた原因は、クラスメイトの掌にあるようだ。
 千佳は、翠に向かってウットリとした表情で掌をワキワキして見せた。その手付きのイヤらしさに、翠は顔が赤くなってきてしまう。
 千佳が自分に対して本気で想いを寄せているのを、翠は母親から聞かされていた。女の子同士で? と最初は思ったものの、母親も、翠と同じ鈴城女子学園に通っていたころには、同じクラスの娘と恋人関係であったと告白されたのだ。だから、千佳が本気というのも素直に信じられた。
 だが、だからと言って、クラスメイトの想いを翠が素直に受け入れられるかというと、そう単純な話でもなかった。
 父親と近親相姦の関係にある自分は、性的なマイノリティであると自覚している。また、両親と同様にセクシャルな面で禁忌の意識が薄いというのも分かっている。その自分が、同性を受け入れられるかと言えば、実のところ、有りだと思っている。そう、女の子とキスをしたり、セックスをしたり出来るかと想像したとき、自分はイケると思えた。ただ一つの条件をクリアしていれば、であるが。
(千佳は……、本気なのよね……)
 その条件とは、『遊び』であること。
 翠は、父親の康史を異性として愛している。誰からも祝福されない関係であるが、であればこそ、好きな男に対しては本気でいたいと翠は思う。今後、父親以外の人間とセックスすることがあったとして、それを楽しむのは良いと思う。だが、その相手を愛してはいけないとも思う。あくまで『遊び』なのである。逆に康史が真奈美と、あるいは別の娘と楽しむことがあっても、その娘たちを愛してほしくはない。
 だから、翠は千佳の想いには答えられない。
 千佳から奪うようにブラジャーをひったくった翠は、クラスメイトに背を向けてブラウスを脱いだ。親友の刺すような視線を背中に感じながら、形の良い乳房を覆う下着を身に着けていく。
 だから、翠は千佳の想いに気付かない振りをしていこうと思った。
 このまま、友達のままでいようと……。