「まったくだな」
「お母さんが、こんなに早く帰ってくるなんて思わなかった……」
「取り敢えず、オレが母さんを部屋で引き留めてるから、その隙に自分の部屋に戻るんだ」
「うん……。ふふ……」
「なんだ? なにが可笑しいんだ?」
「ううん、ごめんなさい、お父さん。可笑しいんじゃなくて、なんだか嬉しいの」
「嬉しい?」
「そう。二人でこうやって秘密を守るのって、なんだかワクワクしちゃう」
 さっきまで、父親との入浴がバレた時のことを考えて肝を冷やしていた翠であるが、康史のおかげで危機を切り抜けた安堵感のためか、今は妙にテンションが上がってしまっている。
「……あたっ!」
 だが、そんな能天気な事を言う娘の頭を、康史は拳で軽く叩いて戒めた。
「元はと言えば、翠が勝手に乱入してきたのが原因なんだ。反省しなさい」
「うー、ごめんなさい……」
 肌を合わせる関係になっても、康史が翠の父親であることに変わりはない。妙なところで父親らしさを見せた康史に、翠は素直に謝った。
「まあ、ちょっとしたスリルはあったな」
「……お父さん?」
「バレたらまずいんだが、バレなければいいんだよ」
「あはっ……」
 昨日、父親とホテルで鉢合わせて以降、翠は父親の意外な表情をいくつも見ることが出来た。そして今も、康史は初めての表情を娘に向けている。大人にバレないように悪戯を仕掛けている、少年のような笑顔。
(ちょっと前に流行った『ちょい悪オヤジ』ってこんな感じなのかしら……。もしかして、アタシの方がブレーキ役になっちゃうの……?)

「このチョコ、美味しー。お母さん、またディナーパーティーに行ってきてよ。これってホテルのオリジナルなんでしょ?」
「チョコじゃなくって、ウイスキーボンボンよ」
「知ってる知ってる。ウイスキーがチョコっと入ってるのよね」
「詰まんないことを言ってないで、そろそろ寝なさい。明日も朝練なんでしょ?」
 あの後、バスタオルを身体に巻いただけの格好で父親の後をついていった翠は、康史が自分たちの寝室に入っていくのを見届けてから自分の部屋に忍んでいった。そして、父親が咄嗟についたウソをもっともらしくするために、簡単なアリバイ工作を行った。具体的には、手早く外着を身に着けて玄関まで行き、さも今帰ってきたばかりですよといった風に扉を開け閉めしたのだ。夜遅くに女子高生が一人で出かけたことを咎められたくらいだから、うまく誤魔化せたようである。
 そして今、早季子のお土産をリビングのローテーブルに広げて、家族団らんのティータイムとなっているわけである。
 早季子に早く寝るように言われた翠は、ふとリビングの時計を見た。針は夜の十時半を指している。今時の女子高生であれば就寝が零時過ぎというのも珍しくないが、翠は大抵十一時には部屋に戻っている。運動部系のラクロス部に所属しているため、朝練に備えて早寝早起きの習慣が身についているのだ。
 だが、それにしても、この時間では寝るのにはまだ少し早い。いつもであれば、こんな時間に寝るように言われることなどほとんどない。
 翠は、一人掛けのソファに座っている父親に目を向けた。ウイスキーの水割りが入ったグラスを手に、康史はテレビの経済ニュースに見入っていた。……ように見える。
 早季子が何を目的として娘に早めの就寝を促したのか、翠には分かっている。紅茶の入ったカップをすすりながら、今度は母親の方をチラリと見た。
(……お母さん、もしかしてノーブラ?)
 早季子は、ゆったりとしたオレンジのトレーナーとクリームホワイトの綿パンに身を包んでいる。綿のパンツは母親の下半身にピッタリとしたもので、腰から腿にかけてムッチリとした肉付きの良いラインが露になっている。同性の自分でもドキドキしてしまうような、魅惑的な下半身だ。それに対して、上半身は身体のラインを隠すようなダブついたトレーナーである。胸のボリュームは隠しようもないが、ピッタリとした下半身とコントラストを取ったように、セックスアピールの対象が見えない。それが逆に、翠の注意を引いた。
 早季子は普段、家にいるときでも必ず下着を身に着けていた。外すのは入浴時と就寝時で、いつもは入浴してからすぐに就寝していたため、母親が下着なしでリビングにいることを、翠はほとんど見たことがない。
(お母さん、エロい……。する気、満々なんだ……)
 そんなオンナの気配を見せている母親が、落ち着かなげでソワソワしている。翠はその理由を完全に知っているが、たとえ知らなくても気付いてしまうな、と思った。
 さっきは康史に、自分の母親への嫉妬心を赤裸々に話した。しかし、それをこの場で出すわけにはいかない。翠は軽くあくびをして、素直に言うことを聞いた風を装った。
「あふ……。ウイスキーボンボン、食べすぎちゃったかな……。それじゃ、アタシはもう寝るね。おやすみなさーい」
「はい、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 眠そうな目をしてリビングを後にした翠は、両親の見えないところで舌を出した。
(ごめんなさい、お母さん。アタシ、全然酔ってないのよね。それにしても、ホントに嬉しそうな顔……)
 未成年ではあるものの、翠はお酒に強い。早季子がビール一杯でフラフラとしてくるのに対して、康史はウイスキーをロックで飲むこともあるくらいなので、体質的には父親の遺伝子を継いでいるようである。さらに言えば、実は康史よりもアルコールに強い。前のお正月に、コタツに入って父親の相手をしていたのだが、翠は康史と同じくらい飲んでいたにも関わらず、先に潰れてしまったのは父親の方であった。
 親にとって、自分の子供とお酒を飲むのは嬉しいものである。翠は普段から、父親の隣で嗜む程度に酒の相手をしていたのだが、お正月ということで父親も娘も後先を気にすることなく日本酒を空けていていった。その結果、先に潰れたのは康史であった。
 だから、二、三個のウイスキーボンボンで翠が酔うことなど無い。それゆえ、翠は母親の表情の変化をつぶさに観察することが出来てしまったのである。
 華が開いたような、母親の嬉しそうな顔を見た翠は、それ以上、何も言えずにリビングを後にした。

「はあ……。これから、お父さんとお母さんが、セックス……、するんだ……」
 自分の部屋に戻った翠はベッドに横になると、天井に向かって大きくため息をついた。
 気を利かせて早く自分の部屋に戻ってきたものの、悶々として眠気は全く訪れない。
「とにかく、今夜はダメ。ホントに寝ないと」
 何がダメなのか、自分でもよく分からない。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。あああダメ、これって日本人には意味がないんだった」
 翠は以前、別の理由で眠れないことがあったのだが、二千五百匹まで数えて眠れなかったとき、羊を数える睡眠導入法を調べたのだ。実はこの方法は、羊(sheep)と眠る(sleep)という英語の語呂合わせから来ており、英語圏の人間でなければ意味がないらしい。もちろん、ただ物を数えるという単純作業でも眠くなるが、やはり英語がネイティブでない日本人にはあまり意味がないそうである。
 これを調べたとき、翠は自分の無駄な努力を嘆くと同時に、新しい無駄な知識の獲得に満足感を覚えた。そして、次の日にクラスの友人たちに教えようと考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったのである。
「ダメなんだから。バレちゃまずいんだから。そう、だから、バレなきゃいいのよ……。って、そんなのダメェっ!」
 一人芝居を続ける翠。
「ダメなんだから……。まずいんだから……」
 呪文のように呟きながら、翠は気付くと両親の寝室の前にいた。
 どうやら、二人はまだリビングにいるようだ。階下から話し声が聞こえてくる
 誰にともなく怪しく呟きながら、翠は夢遊病患者のように夫婦の閨に足を踏み入れた、明かりは点けずに部屋を見まわし、クローゼットに目を付ける。フラフラとした様子でクローゼットを開けた翠は、音を立てないようにして身を潜めた。
「バレちゃまずいの。そう、バレなきゃいいのよ。だから、バレないように気を付けないと……。でも止めた方が……。だって……、でも……」
 自分相手に押し問答を繰り返しながら、翠はいつもの癖で持ってきてしまったスマートフォンを起動した。暗闇の中で見る画面が煌々としている。
 と、二人分の足音が聞こえてきた。
(キタ……!)
 クローゼットの扉はガラリ戸になっている。ガラリ戸とは複数の細い板を平行にして取り付けたもので、よろい戸とも呼ばれる。通風や換気が出来ると同時に目隠しにもなるので、浴室や収納の扉などに使われている。
 翠が身を隠したのは、両親のウォークインクローゼットである。目隠しよりは換気を良くしたガラリ戸であるためか、中から部屋の様子がよく見えた。
 足音が近づき、やがて扉が開くと、腕を組んだ仲睦まじい様子の両親が入ってきた。すでにいい雰囲気のようである。
 と、翠は慌ててスマートフォンの電源を落とした。そして、うっかり着信音が鳴らないように、完全に電源も切ってしまう。
 これから、両親のセックスが始まるのだ。
「バレないように気を付けないと。……って、さっき言ったばっかりなのに、アタシってば何をしてるの……」
 手遅れなことを呟きながら、翠はガラリ戸の向こう側に見える両親の情熱的な口付けから目が離せなかった。