きっかけは明人も良く覚えてはいない。何か不用意な一言を静音に言ってしまったのかもしれない。
 明人が覚えているのは、静音が見たこともないような表情で感情を顕わにしている様子だった。怒りとも、悲しみともつかない、激情だけが噴き出しているような顔。
 言い合いも、売り言葉に買い言葉。二人とも子供が持てないと言う絶望感から、どんどんエスカレートしていった。
「あたしは! 子供が欲しいの! 自分の子供が欲しいのよ!」
「だったら、僕の子じゃなくてもいいってのか!」
「違う違う! そんな……そんなこと……、違うのよ! でもっ……!」
「だったら、キミの好きなお義兄さんにでも頼んだらどうだ?!」
「……!」
「僕の代わりに……」
「……わかった」
「子供を作ってくれるヤツを探せ、とか……、は?」
「兄さんに頼む」
「静音……?」
 それまで激しい感情を夫に向けていた静音が、なぜか一瞬で静まり返った。だがそれは、静音の感情が平静を取り戻したからではない。そうではないことは、明人にも容易に感じられた。それは、嵐の前の静けさ、あるいは、噴火の前に動物が姿を消した森にも似ていた。
 しばらくの間、顔を伏せ、肩を震わせていた静音が、喉の奥から搾り出すような声でとんでもないことを呟いた。
「兄さんと、子供を作る……」
「待て、何を言ってるんだ、静音?」
「何を? 明人さんが言ったんじゃない! 他の男と子供を作れって! 兄さんに頼めって! だからあたしは! 兄さんと作るの!」
「いや待て、待て待て待て、そういう意味じゃない! なんでそんな話になるんだ! だいたい、お義兄さんだって、そんな話に乗るわけが無い!」
「大丈夫よ。だって、初めてじゃないんだから……」
「……え?」
 止まらなかった。我慢が出来なかった。震える声で、静音は言ってはならないことを口走ってしまう。
「明人さんと付き合うまで、あたしと兄さんは恋人同士だったんだから!」
「な……に……?」
「実家にいる間は、毎晩のようにセックスしてたんだもの!」
「うそ……、だよな?」
「ホントよ! 今だって実家に帰るたびにしてるんだから!」
 そう言い捨てると、静音は身体を翻し、着の身着のままで家を出て行ってしまった。
 明人は追いかけることも出来ず、一人になった部屋の真ん中で、ただ呆然としているだけだった。
 先週の話である。


「あいつ……、話しちゃったんですか……」
 聡はひどく居心地の悪い思いがした。落ち着く為にコーヒーを口にしたが、先程まで香りを楽しんでいたはずの液体の味が全然わからない。
「ええ。でも、もう一度言いますけど、お義兄さんを責めるつもりはないんですよ」
「いや、でも……」
「これからお願いする事を考えたら、責めるなんてとてもとても……」
「お願いって、まさか……」
 明人は一瞬の間を置いて、聡の目を正面から見据えた。
「そう。静音と、子供を作ってほしいんです」
 話の流れから予想することは出来たが、それはあまりにも衝撃的なお願いだった。聡は明人の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。その度に、妹の淫らな肢体が脳裏に浮かび上がっては消えた。
 妹を愛しているかと聞かれれば、聡はその通りだと答える。しかも、女としてである。だが、それと子供を作ることとは話が別だ。妹との肉欲に溺れているという自覚がある聡だが、それでも、自分と静音は子供を作ってはいけない。そう考えているし、それが常識というものだ。
 それが、こともあろうに静音の夫から、血の繋がった妹との子作りを求められるとは。
「は……、正気、ですか? 俺は静音の兄貴なんですよ? 血の繋がった、実の兄なんですよ!」
「普段から実の妹を抱いているお義兄さんよりは、正気なつもりです。……ああ、すみません。イヤミで言ったんじゃないんです。……いや、自分が正気だと思っているだけで、やっぱりおかしいのかな? でも、知らない人間に妻を抱かれるよりはマシだと思うんです。かといって、僕の知り合いに頼むのも御免だし。だから、お義兄さんなんですよ」
「……静音は、承知してるんですか?」
「この一週間、毎晩のように話しましたよ。苦労したのは、僕が納得していることを納得してもらうことだったんですけど」
「なんか、禅問答みたいですね」
 ずれた返答をしてしまったが、義弟の言わんとしていることは理解できるつもりだ。
 子供を授かるために、妻を他の男に差し出す。普通に考えればありえない話だし、ましてやその男は、妻と血の繋がった実の兄なのだ。近親性愛など普通は嫌悪の対象でしかない。
 それを、納得していると言う。
「……明人さんは、本当に大丈夫なんですか?」
「僕は冷静ですよ。少なくとも、そのつもりです。そのつもりだけど、さて、冷静で頭がおかしい人間は、なんと呼ばれるんでしょうね?」
 明人は頭の良い男だ。妹の結婚前に紹介されてから四年ほどの付き合いだが、社会的身分は言うに及ばず、会話の端々に怜悧なものを感じさせる好男子である。それゆえ、今回のことも理詰めで考えて良しとしたのだろうか。だが、そういう人間がひとたび壊れるとどうなるか。タチの悪いことに、明人には偽悪趣味がある。妻を寝取られた男という役割を、楽しんでいる風に見せているのだろうか。
(いかん、頭が混乱してきた。夫公認の不倫? いや、明人さんはもしかして寝取られが好きなのか? いやいや、そもそも俺と静音は不倫の関係なのか?)


「さて、もう一つだけ、お願いがあります」
「もう、一つ?」
「ええ。別に、難しいことではないですよ。お義兄さんと静音の子作りに、僕も立ち会わせてもらうこと」
(……変態だ)
 聡は確信した。
 妻を他の男に抱かせるだけでなく、それを見たいというのはさすがに普通ではない。
 つまりは、まあ、聡と同類だ。
 セクシャルな面での禁忌が希薄な人間。単にセックスをしたがるだけの節操の無い人間とは違う、自分の欲求に素直な人間。
 概ね、そういった人間は意外と簡単に自分の性的嗜好を周囲にカミングアウトする。また、その際も悪びれたり恥ずかしがったりすることがない。それは、カミングアウトによって、相手が目を白黒させることも楽しみの一つと捉えているからだ。また、変に隠すこともしないから後ろ暗いところもないので、逆に好印象を持たれることも多い。
 実際、親兄弟、友人、会社の同僚、先輩、後輩など、周囲の人間全てに自分の性的嗜好を話している者もいるが、それで人間関係が変わったりはしていない。むしろ話題の一つとなるので、自分の持ちネタにしていたりもする。
 明人は、どうやらそういう嗜好の人間のようだ。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
「え、行く?」
 我ながらバカみたいな顔をしてるだろうなと思いつつ、聡はオウムみたいに聞き返した。
「もちろん、ウチです。静音がお義兄さんのことを待ってますよ」
 いきなり過ぎる、とは思ったが、聡は大人しくついていくことにした。
 考えてみれば、静音との肉体関係については一方的に責められても仕方がない。世間的には、これを理由に離婚、慰謝料請求という流れが当たり前なのだ。しかし、明人は責めるどころか、むしろ頼みたいという。これを断った場合のことを考えて、聡は背筋が冷たくなる思いがした。さっき、妹との関係を明人が知っていることを告げられた時にはそこまで考えが至らなかったが、今になってようやく実感してきたところである。
 素直に言うことを聞いた方が良い。聡はそう結論付けた。
(大丈夫だ。明人さんは常識人だ。責めるつもりはないって言ってるじゃないか。なぁに、ちょっと変わったことをするだけで、普通にしていれば問題ない)
 常識人は妻を他の男に差し出すなどとことはしないし、近親相姦を許すこともない、ということは考えないようにした。