「クソッ! クソッ!」
 いつもより熱いシャワーを浴びながら、聡は壁に向かって毒づいた。拳をタイルの壁に執拗に打ち続ける。
「なんなんだよ、一体……」
 静音と明人は、子供を作れない。原因は、明人が無精子症であるという。
 冷たいことを言ってしまえば、これは静音と明人の夫婦間の問題だ。聡には何の関係も無い。だが……
「楽しみにしてたんだよな、静音のヤツ……」
 昔、聡と恋仲だったときにも子供を作りたいと言っていたが、さすがに兄妹では無理と説得して、静音はようやくあきらめたのだ。
 それから明人と出会い、結婚して、子供が出来るとなったときの静音は本当に嬉しそうだった。
 それが、明人とは子供が出来ないという。
「明人さんとのケンカの原因は、それか?」
 いつもは他愛の無い理由で実家に飛び込んできては、迎えに来た明人と仲良く帰っていく。それが当たり前のことで、聡も母親も心配などしたことはこれまで一度も無かった。
 それが、どうやら今回の家出は、意味が全く違うようだ。
「どーしたもんか……」
 といっても、やはり夫婦間の問題なので、聡が一人で考えたところで結論など出るはずも無い。
「……」
 シャワーの水音が耳に響く。
 静音が聡と子供を作ろうとしたのも、ケンカの勢いで実家に戻ってきて昔のことを思い出し、そのままなし崩しにとでも考えたのだろうか。まあ、明日になれば落ち着いて、迎えに来た明人と帰っていくに違いない。
 そうであって欲しい。
「ハァ……クソッ……」
 身体を拭き、タオルを巻いただけの格好で聡が自室に戻ると、静音は全裸のままタオルケットに包まって寝ていた。一応、身体を拭いたのか、ベッドの下にはティッシュが散らばっている。
「静音……」
 赤ん坊のように膝を抱える格好で寝ている静音は、涙で頬を赤く濡らしていた。
 さすがに、もう一度起こして二回戦目などという気にはならないし、慰めの言葉も思いつかない。風邪を引くといけないので、妹の身体にタオルケットをもう一枚余分にかけると、Tシャツとパンツを身に着けた聡はリビングに降りていった。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに座って口を付ける。
「こんなとき、映画なんかだとタバコを吸うんだよな……」
 だが、聡には喫煙の習慣は無い。
 窓の外を見ると、早くも空が白み始めていた。陽が昇るまでにはまだまだあるだろうが、既に深夜というよりは早朝だ。
「静音と、子作りか……」
 それは、何度考えてもありえないと結論付けた話だ。
 缶に残ったビールを一気にあおると、心も身体も疲れてしまった聡は、倒れ込むようにソファに横たわった。
「……ダメだ。一寝入りしてから考えよう。幸い、夏休みはあと数日残っているし、静音とは落ち着いてゆっくりと話しをした方がいい。できれば、明人さんや母さんも一緒の方がいいよな。どう考えても、俺一人の胸にしまっておくには……話が、重過ぎる……」
 窓から射し込む夏の朝日に照らされて聡は目を覚ました。鳥の声と、暑苦しいセミの鳴き声が早くも聞こえてくる。陽が当たってあっという間に上がってきた気温と、やかましいくらいのセミの鳴き声が夏の夜明けを実感させていた。
 ふと時計を見ると、ソファで横になって二時間ほどしか経っていない。当たり前だが、寝た気が全くしない。母親がいつも通り起きてくるのは、三十分くらい後のはずだ。
「まさか、丸一日寝てたわけじゃないよな」
 時計のカレンダーで日付を確認してホッとする。
 鈍い身体を無理やり起こし、冷蔵庫から麦茶を出してコップ一杯を一気に飲み干すと、聡は二階の自分の部屋に向かった。扉の前に立ち、ドアノブを握って固まってしまう。
 目の前にあるのは自分の部屋の扉である。だが、聡はそれを開くのを躊躇した。静音はまだ寝ているだろうが、起きていたとしても、何を言えばいいのか見当もつかない。しかし、いつまでもこのままでいるわけにもいかないので、聡は意を決して自分の部屋に入った。
 驚いたことに、聡の部屋の中に静音の姿はなかった。慌てて、今は客間となった以前の静音の部屋を覗くが、そこにもいない。まさかと思って玄関に行くと、静音の履いてきた靴も無くなっていた。
「帰ったのか?」
 静音は自殺するようなタイプではないが、昨夜の妹の様子では何をしでかすか分からない。一抹の不安を感じつつ自室に戻った聡は、自分のスマートフォンにメールが着信しているのに気が付いた。

 ゴメンね、兄さん。
 明人さんのところに帰るね。
 心配しないで。
 母さんにはテキトーに言っといて。

「……あのバカ、俺には爆弾置いてって、母さんは放置かよ。なんて言やいいんだ……」
 結局、静音は聡の心と身体を引っかき回しただけで、何も解決しないまま一人で帰って行ってしまった。聡に残ったのは、誰に話すわけにもいかない、悶々とした気分だけであった。
 静音の夫の明人から連絡があったのは、静音が自宅へ帰ってから一週間ほど経ってからのことだった。昼休みに電話があり、週末だし、今夜は食事がてら二人で話がしたいとの事だった。
 明人とは静音との結婚前から良好な関係を築いている。当たり前のことだが、聡と静音の禁断の関係については秘密だ。聡としては静音と共に墓まで持っていくつもりである。
 明人は聡より四歳年上である。年上の義弟が出来ることに初めは驚いたものの、気が合うところがあったようで、明人と静音が結婚する前から差しで飲むような関係になった。
 IT関係の会社に勤める明人は落ち着いた印象で、感情的になることはほとんど無い。かといって、おとなしい性格というわけでもない。仕事の話をしていると、管理職として攻めの姿勢で部下を叱咤しつつ強気の営業を行っているようで、会社の中では出世コースを進んでいるらしい。
 また、ベッドの上でも結構ガツガツとしていることは静音から聞いていた。肉食系だのなんだの言っていたが、静音の抱き方が聡とは全然違っているらしい。どうやら、倦怠期とは無縁の夜を過ごしているようだ。
 明人が予約していたのは、高層ビルの最上階にある高級レストランだった。肉料理がメインとなっており、ワインも豊富に取り揃えている。夜、男二人で食事をするときの、行きつけのお店である。聡は結婚前にも、ここで明人から色々な相談を受けたことがあった。無駄話を楽しむために居酒屋などで飲むことも多いのだが、大事な話があるときはいつもこのレストランを使っていた。
 聡は待ち合わせたレストランに着くと、ウェイトレスに奥のコンパートメントへ案内された。普段は眺めの良い窓際の席を予約しているのだが、いつもと違って奥の個室を使うつもりらしい。
 一週間前に妹を抱いたばかりの聡は、いつもと違う雰囲気に少し身構えたが、軽く息を吐き出して気持ちを落ち着かせた。何も言われていないうちから気に病んでも仕方ない。静音と寝たことについては後悔などしていないし、もともと深い悩みとは縁遠い性格だ。それに、あれから一週間経っている。静音との関係がバレたのなら、もっと早く連絡しているだろうし、わざわざ二人での食事の場などセッティングしないはずだ。
 おそらくは、静音と明人が子供を作れない件だろう。
「こんばんは、お義兄さん」
「や。明人さん、お待たせ」
 いつも通りの落ち着いた笑顔で迎えられた聡は、正直ほっとした。あまり深刻な話でもないらしい。静音との子供の話で間違いないだろうが、それは二人で解決する問題である。実際は深刻でないわけないだろうが、話を聞いてもらいたい、そんな程度だろう。
「注文は?」
「お義兄さんが来る前に、もうしてありますよ。いつもと同じ、シェフのお薦めコースで」
 明人の正面に座った聡は、改めて義理の弟の顔を見た。理知的な印象を与える細身のメガネ。キチンと整えられた短めの髪。夏だと言うのにしっかりと締められたネクタイ。腕にはブライトリングの腕時計。もしこれが営業の接待だとしたら、中々に手強い交渉相手だと警戒するだろう。
「それじゃ、料理をお願いします」
「かしこまりました」
 丁寧なお辞儀をしたウェイトレスが退室すると、部屋の中は二人きりになった。お店の雰囲気に合わせた優雅なクラシックが流れている。
 食前酒のシェリーはすでに用意されており、明人は一足先に口をつけていたらしい。彼の前には中身の入った細身のグラスがあった。
「お義兄さんも、どうぞ」
「ああ、いただきます」
 グラスに注がれた少し強めのお酒の匂いを軽く楽しむと、二人は一気にグラスをあおった。
「お義兄さん」
「ん?」
「改めて、この間は静音が迷惑をかけたようで、申し訳ないです」
 年上の義弟は、聡が驚くくらい丁寧に頭を下げた。
「いやいやいや、そんな謝られるようなことじゃないッスよ。いつものことだし」
「いつものこと、ね……」
「それで、相談って? やっぱり静音のことですか?」
「そうなんですけど、話は食事が終わってからにしましょう」
 何か引っかかるものを感じながら、聡は明人の言を受け入れた。今日は仕事の都合で昼食が早めだったのだ。空腹がそろそろ耐え難いものになってきている。
 今日のおすすめは何だったか、と考えたところで料理が運ばれてきた。
 お互いの仕事の話や、昨今話題の時事ネタを交えつつ、和んだ雰囲気で食事は進んでいった。だが、共通の話題であるはずの静音のことについては、二人とも口には出さなかった。今日の本題だと、お互いに承知していたからだ。
「ふー、いやあ、いつも通り、健啖家ですねぇ、お義兄さん」
「今日は、特にお昼が早かったから。それで、そろそろ本題といきましょうか? 静音のことでしょ?」
「ええ、まあ……」
 食器は既に下げられ、二人の前には食後のコーヒーが出されている。
 コーヒーカップを片手に、それっきり明人は黙ってしまった。
 こちらもコーヒーの香りを楽しみながら、聡は相手が話し始めるのを待つ。こういう時、聡は決して相手を急かさない。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、せっかちなのは聡の好みではないのだ。
 やがて意を決したように、明人は聡を正面から見据えた。
「何から話そうか、本当に迷ったんですけどね。営業的な腹芸はしたくないし、思ったことを正直に言うことにします」
「そうして下さい。俺も明人さんに隠し事はしたくないし」
 矛盾しているようだが、これは聡の本心だ。
「静音を……、実の妹を抱くっていうのは、どんな感じです?」
「…………え?」
 それは、あまりにも直球すぎる一言であった。
 聡は手に持ったカップを思わず取り落としそうになった。ゆっくりとカップをソーサーに戻す手が少し震えている。
「どう、って……」
「言っておきますけど、お義兄さんを責めているわけじゃないんですよ」
 明人はいつもと変わらない笑顔を義兄に向けている。本当にいつも通りなので、聡は自分が聞き違えたのかと思ったくらいだ。
「いや、だって……。俺、静音と、あなたの奥さんと寝たんですよ。しかも、自分と血が繋がっている……」
「頭がおかしいと思うでしょうけど、最初に僕が思ったのが、『その手があったか』ってことなんです」
「…………は? いや、……ええ?」
「やっぱり、順番に話しますね」
「え、ええ。そうして下さい……」
 明人は大きく息を吸い込んだ。
 静音との関係をいきなり聞かれて聡は動揺したが、どうやら糾弾するということではないようだ
「静音と結婚してから、僕たちはすぐに子作りを始めたんですけど、お義兄さんも知っての通り、この三年間、全く出来ませんでした。それで、先月お互いに病院で検査をしたんです。結果、静音には問題が無かったんですけど、僕に……まあ、子種が無かったんです。いわゆる無精子症ってやつで」
「それは、この間、静音から聞きました」
 正面に座る義理の弟は困ったような笑顔を見せるだけで、話す内容とは裏腹に、その口調は淡々としていた。まるで、要望に応えるのは難しいとクライアントに話しているかのような口振りだ。
「それからしばらくは、普段通りに過ごしてたんです。夜は、まあ、さすがにお互い、する気にはならなかったんですけど。それに、子供のことは話題に出さないようにして。でも、先週……、久しぶりに静音の身体を求めたとき……」